「時々、僕は透明になる」④
◆授業中に発症
5月の日差しが、教室の窓に反射している。
窓際の席にはまるで後光が差しているような女の子、水沢純子が懸命に教師の話を聞いてノートをとっている。
その姿を切り抜いて額に飾りたいくらいだ。
僕は水沢純子に恋をしている・・
けれど、眠い・・
午後の眠くなるような時間、教師の声が更に眠気を誘う。
この時間は授業を受けるというよりも眠気と戦う時間だ。
昨夜は受験勉強に加えて、あのおかしな出来事だ。更に眠い・・
その時だった。
体が宙に浮くような感覚が襲った。
何だ? 今度は・・
そう思って掌を見てみる。
案の定、予想通り・・
透明だった。
だが、これはまずいぞ!
今は授業中だ。
眠気も一気に醒めた。
気になって右横の男子の佐々木を見る。
その男子、佐々木は目を細めながら僕を見ている。目を細めた後は目を擦った。
今度は左の女の子、加藤ゆかりを見る。スポーツ万能女子だ。
やはり僕を見ている。
普段は女子に見られることのない僕が、だ。
そして、肝心の後ろの席・・
おそるおそる、振り返る。
後ろには女子、僕と同じ眼鏡の速水沙織がいる。無口な女子だ。勉強ばかりしているイメージがある。水沢純子が健康的な文武両道女子なら、速水沙織は勉強一筋なのかもしれない。
「何?」
後ろを見るなり、眼鏡をくいと上げ速水さんは言った。
速水さんは真顔で僕の顔を見てる。眼光が鋭い。
速水さんに「ごめん」と言い、前に向き直った。
あれ? 速水さんには僕が見えるのか?
それとも背中は見えるのか?
それはおかしい・・
いや、今はそんなことはどうでもいい。この状況はどうしたらいいんだ?
保健室に行ったらいいのか?
そして、先生には僕が見えるのだろうか?
手を挙げたらいいんじゃないか?
ああ、どうしたらいい?
思考が錯綜する。
「三千子」~ 記憶に残らない女④
外を見ると、更に雨が強くなっているのがわかる。窓際の席。ガラス窓の上を雨粒がタラタラと伝っている。
目の前の近藤は、大きなハンバーグを食べながら、
「その時からだよな? 市村三千子が痩せ始めたのは・・」と話を戻した。
「ああ・・そうだ」
「他の奴ら、みんな驚いていたぜ、市村が、中谷の好みに合わせて、ダイエットしているんだってな」
そう、あの日から、三千子はダイエットを始めた。
だが、俺は、そんなことは望んではいなかった。
だが、そのことを言えない雰囲気が三千子にはあった。何かに憑りつかれているように見えたからだ。
あの後、どうなったのか?
今度は、三千子は太り始めた。
その原因は・・すぐに思い出した。あれは学祭の時だ。
人の往来の中、俺は三千子と並んで歩いていた。いわゆる学祭デートだ。にもかかわらず、手は繋がず歩いていた。そんな仲だったのかもしれない。
確かチアリーディングの演習だった。その時の俺は、そんな女の子に目がいっていた。
その中の子が無邪気で可愛く見えたのかもしれない。
今思えば、なぜ俺がそんな演習に目が吸い寄せられるように見入ってしまったのか、分かる気がする。
息苦しかったのだ。三千子といることが。
三千子がいるにも関わらず、俺は一人の女の子に釘付けになった。
・・その子は、その女の子の体型は、ぽっちゃりしていた。
次々と思い出した。
三千子は、その次の日から呆れるほど食事を多く摂るようになった。食事にはスナック菓子も含まれる。スナック菓子を俺のいないところでも、目の前でも食べ続けた。
お約束のように、三千子は太り出した。
俺がチアリーディングの子を見ていたのは、別に彼女が太っていたからではない。明るく見えたからだ。
だが、そんなことを解さない三千子は、俺が太った子が好みなのだと、勝手に解釈し、走り出したのだ。
「三千子」~ 記憶に残らない女③
確か、あれは、授業が休講になり、大学のラウンジで、三千子とお茶を飲んでいた時だ。
彼女と話すことにも飽き、暇を持て余した俺は、ラックの週刊誌を手に取り、パラパラと捲っていた。
何となく、その中のアイドルのグラビアを眺めていた。
そんな光景がまざまざと浮かんできた。
「ねえ、中谷くん」
「何?」
「中谷くんは、痩せている女の子が好きなの?」
「どうして、そんなことを訊くんだ?」
俺の問いに、三千子はすっと俺の手から週刊誌を取り上げ、
「だって、この子、すごく痩せているじゃない!」と開いたページを目の前に見せて言った。
確かに、そこには水着のアイドルが、世の男どもに媚びるような肢体を見せていた。
特に痩せているわけでもないが、その辺の女子大生よりは痩せているような気がした。
「別に、こんな子、好みじゃないよ」
俺がそう言うと、
「だって、中谷くん、ずっと見てたじゃない!」と三千子は断固抗議するように言った。
そんなにムキになるのなら、週刊誌など手に取るのではなかった、と思ったほどの権幕だった。
三千子の様子に怯んだ俺は、週刊誌を元あった場所に戻した。
だが、事はそれだけでは済まなかった。
次の日のランチから様子が変わった。三千子はいつもの定食は頼まず、コーヒーとプリンを注文しただけだった。
「お腹、空かないのか?」と訊くと、
「プリンが好きなの」
そう言って三千子は笑った。
そこまで、記憶を遡った時、
俺の座っているファミレスのシートが、ずんと揺れた。後ろに誰かが座ったのだ。
ふわりと雨の匂いがし、微かな香水の匂いもあとを追うように漂ってきた。
体に降りかかった雨と香水が混ざったような匂い。
若い女性だ。他の一人客と同じように雨宿りなのだろう。
近藤がチラリと俺の後ろの席を見た。昔から近藤は女には目がない。だが、そんな近藤でも俺の真後ろに座った女性の顔を見ることはできない。
近藤は、「うっかり、顔を見損ねた」と笑った。
俺は、「近藤らしくないな。ちゃんと見ておけよ」と冗談交じりに言った。
・・俺は、ちらっと見ただけだが、特に興味も沸かなかった。
「時々、僕は透明になる」③
◆通学路にて
いつもの通学路、あえて「いつもの」という言葉を使いたいくらい、いたって何でもない一日が始まろうとしている。
昨晩の衝撃が体のどこかにまだ残っているのか、少し、体がだるいことを除けば何でもない朝だ。
目の前を同じクラスの男子が大声で笑いながら、歩いている。
当然ながら、僕はそんな連中には属さない大人しい高校生だ。
「よっ、鈴木」と後ろから佐藤が声をかけてくる。
そう、僕は「鈴木」という日本で一番多い苗字を持つ男だ。よって没個性的とも言われたことがある。実際に個性に秀でてはいない。ついでに影も薄い。
「受験勉強はかどっているか?」
そんな佐藤もごく僕に負けず劣らずのありふれた名字だ。
佐藤の問いを適当に流しながら僕は昨日のことをまた考えていた。
もし、仮に・・本当に透明人間になったら、
不可能が可能になる。
それが可能になれば、僕はやりたいことがある・・
「おい、鈴木、聞いているのか?」佐藤の大きな声に我に返った。
佐藤は顎でくいと前方を指した。
「水沢さんだぞ」
目の前をすっすっと風のように歩いているのは、クラス一の秀才と言われる水沢純子だ。
5月の爽やかな風が吹く中、健康そうな脚で颯爽と歩く彼女は僕の初恋の人だ。
「佐藤くん、おはよう」
僕たちの脇を通り過ぎながら、佐藤と同じクラスの女の子が挨拶をする。
当然、僕には挨拶無しだ。
そう、佐藤はモテる男だ。
僕と違って、運動神経はいいし、当然、成績もいいし、おまけに歌も上手いときてる。
だが、佐藤は僕に朝の挨拶をしない女の子は無視する。頷く程度だ。
「鈴木を軽視する女は挨拶を返す価値なしだ」・・以前、佐藤が言っていた言葉だ。
そんな理由からかどうかは分からないが佐藤とは長いつき合いだ。
特に趣味が合うとか、目標が同じとかではない。時々会って話すのは佐藤くらいだ。
女の子の方はどうして自分たちが無視されるのか、分からない様子で去っていく。
「僕のことは気にしなくていいよ」と僕が佐藤に言うと、
「俺は寄ってくる奴らは嫌いなんだ」と答えた。
確かに僕は佐藤に寄ってはいかなかったが・・
今、去って行った女の子、山野いずみには僕が一年の時、
「鈴木君って、いるのかいないのか、わからないわよね」と言われたことがある。
もちろん、陰口だ。
そんな陰口をご丁寧に教えに来るクラスメイトもいる。
「お前、あんな風に思われてるぞ」と笑い、ご満悦の様子だった。
自分自身は存在感があるとでも言いたかったのだろうか?
そんなことを思い返していると佐藤が「じゃあな、鈴木」と手を振って3階に上がっていった。
佐藤とはクラスが別だ。僕は2階の2年2組の教室に入る。
「並木道」~140字創作
「並木道」
美しい並木道の中
あなたはそっと手を伸ばしてきましたね
でも私は意地悪して知らんぷり
照れくさそうなあなたの顔
そんなあなたが可笑しくて
私は道の先に目をやりました
木立の美しさに見入っていると
あなたの温もりが手に触れ
私はそっと温もりを返しました
「三千子」~ 記憶に残らない女②
◆深夜のファミレス
雨の夜だった。
深夜のファミレスで 俺は久しぶりに会った大学時代の友人と食事をしていた。
遅い時間ともいうこともあって、家族客はおらず、店内は閑散としていて静かだった。おまけに、外は長雨だ。時折、雨宿り代わりに一人客が入ってくる。
一時しのぎのせいか、オーダーもコーヒーなどの飲み物ばかりで、ウェイトレスは暇そうにしている。
向かいに座っている友人は、近藤といって、大学のゼミで一緒だった男だ。
互いに近況を報告し合った後、近藤は女の話を始めた。近藤は学生の頃から女遊びが派手だったことで有名だった。
近藤は自分の話を一通り終えると、こう切り出した。
「なあ、中谷」と俺の名を呼び、
「あの子、憶えているか?」と訊いた。
「あの子って?」
「あの子だよ。市村三千子、おまえ、学生の頃、あの子とつき合っていたよな?」
久しぶりに会った友人から三千子の名前を聞いた時、誰の話なのか、咄嗟に思い出せなかった。
三千子(みちこ)とは、大学生の時、二年間つき合っていた。
大学四年間の内の二年間は大きな数字だ。決して短い期間とは言えない。
春夏秋冬が二度繰り返す。
三千子は、友人から紹介された。年は一つ下だった。
少し暗い雰囲気のする女性だった。女の子ではなく、大人の雰囲気を持っていた。
とりたて、目立つほど綺麗ではないが、時折、ドキッとするほど、美人に見える時があった。
近藤のようにさほどモテない俺は、そんな三千子とつきあい始めた。
だが、つき合っていた時、どこに行ったとか、何を食べたとか、何を祝ったのか、まるで思い出せない。どれほど深い関係だったのかもよく思い出せない。
それに、彼女とつき合っているという事実を忘れてしまうこともしばしばあった。
合コンに誘われ、参加をOKした時など、「中谷には彼女がいたじゃないか」と言われたこともあった。
そんな風に、三千子と過ごした日々は、何かしらふわふわとしたような感覚があった。
更に、三千子のことを思い出そうとすると、何かでつっかえてしまう。心の中に、何かの壁があるみたいだ。
三千子と過ごした二年間だけ、二人の時間だけが、ドロップアウトしたみたいに、記憶が欠落している。
「おまえ、市村とつきあい始めた頃、俺に自慢していたじゃないか」
「そうだったかな?」
「ほら、映画・・何ていう題名だったか忘れたけど、向こうから手を握ってきたって、お前、言っていたぞ。俺は、そんな話は聞きたくもなかったがな」
そうだったのか・・
だが、近藤が憶えているのに、当事者の俺がよく憶えていない。当然、三千子と見に行った映画の題名など、全く憶えていない。映画に行ったのは、一回だけだったのか、それとも何度も行ったのかもわからない。
俺は、この年で健忘症なのか? まだ30代だぞ。
いや、頭は正常そのものだし、体に悪いところなど一つもない。
市村三千子・・どうしても彼女の思い出だけが引っ張り出せない。
そんな女と、どうして、そんなに長く、二年間もつき合うことが出来たのか?
その原因を手繰り寄せていくと、
一つのことに気づいた。
それは、三千子がいつでも俺の要望に応えてくれていたからではないだろうか?