「時々、僕は透明になる」②
シャーペンを握る手が薄い・・いや、透明に見えた。机の木目が透けて見えている。
右手をくいと参考書の見開きの前に置いてみた。同じく活字が透けてよく見える。
眼鏡を外し、右手を左手で掴んでみる。
確かにある。右手の感触があるし、肩から右に伸びているのが感じられる。
だが、見えないのだ。右手が見えない。
ドクンドクン・・
心臓の鼓動が一気に高鳴る。
これは何かの病気なのか? 病院に行った方がいいのか。いやその前に、母に見てもらわないと・・
階下にいる母に!
そう思って立ち上がった時だった。
いつも髪を整える時に見ている大きな壁の鏡に、僕の顔が映っていない。
顔どころか、肩も、胸も・・
血の気が退いていく。ざざっと音を立て体中の血液が下に向かって降りていく。これが人生初の貧血だ。
僕は確かに鏡を見ているはずだ。
だがそこに映っているのは、僕の後ろ、つまり、本棚に並ぶ文庫本だけだった。
これはまさしく五月病か何かか?
トントン、
「道雄、入るわよ」
ノックをして母がいつもの時間、いつもの紅茶を持ってきた。いや、いつもより少し遅いかも・・僕は慌てて椅子に腰かける。
どうしよう。どうしよう・・言うべきか・・
迷っている間に母から出た言葉は、
「頑張ってるわねえ」だった。
トレイをテーブルに置きながら、いつもの励ましの言葉。
あれ、母には見えているようだ。どういうことだ?
「何、その顔、まるでお化けでも見るように」
「な、何でもない」僕は慌てて首を振った。
そして、今度は立ち上がり、壁に掛けてある鏡を改めて見る。
ちゃんと僕の顔が映っている・・
なあーんだ。気のせいだったのか。
下半身に降下した血液が再び、頭部に戻ってくるようだった。
「何なの、道雄、立ったり、座ったり」
母の言葉に思わず笑いが込み上げてくる。
さっきの透明化現象の原因が分かった。
受験勉強のし過ぎ・・つまり、疲れだ。
僕は右手を左手で握りながら小躍りしそうになる。さっきまでの不安は何だったのか?
「お母さんには僕がちゃんと見えているよね?」
少し気恥ずかしい言葉を言ってみた。
こういう言葉は勢いで言うものだ。
「何なのよ・・気持ち悪い・・道雄は時々変なことを言うんだから」
もう二度とこんなセリフは言わないでおくことにする。